「物語消費論」や「キャラクターメーカー」「ストーリーメーカー」などの著作で知られる、批評家、漫画原作者として高名な大塚英志氏。
今回は、そんな大塚先生の著作に感銘を受けたwise9編集長、shi3zが恐れ多くも大塚先生にインタビュー取材を敢行。「コンピータもゲームも自分の人生に必要ない」と断言する大塚先生にコンピュータとゲームしか人生に存在しないwise9編集部が聞く!
——本日は取材に応じて頂いてありがとうございます。まず失礼ですが、あらためて大塚先生の経歴をお聞きしてもよろしいでしょうか。
僕の仕事はもともと、今もそうだけど「漫画の原作者」です。ほとんど角川書店の専属に近いですね。「多重人格探偵サイコ」シリーズの作品など、何本かの漫画のシナリオを書くのが今の仕事です。
——大学で教鞭を執ったきっかけはどういったものですか?
5年前に「神戸芸術工科大学」のメディア表現学科というメディア系の大学が立ち上がるということになったときに、カリキュラムから作らせてくれる、ということだったので、「まんがの教え方をゼロからつくる」ことを面白く感じたことがきっかけ。その学科のカリキュラムを作りながら、教員をやっています。職業はその2つですね。
——カリキュラムから、つまりゼロから学科を創設されたわけですね。
ぶっちゃけた話を言うと、文科省の方針で、5,6年前にコンテンツ系の大学や学部学科の乱立というものがあったんですが、このような大学というのは元々に日本になかったものなので、どの大学もアメリカの映画系の大学のカリキュラムを参考にしたのです。 (参考: Wikipedia – 映画学)
でも、アメリカのカリキュラムを右から左に持って来ただけなので「じゃあいったい何をやるのか」という内容がなかったんですね。
もともとこのような構造的物語論というのはアメリカではごく当たり前にストーリーづくりに実用化されているものです。
有名なのは、映画「スターウォーズ」のプロットを作るとき、監督のジョージ・ルーカスが神話学者ジョーゼフ・キャンベルに弟子入りのようなことをしているんですよね (参考: ジョゼフ・キャンベル「千の顔を持つ英雄」)。文化人類学の神話分析の中の論理フレーム、という古典的なものを、「批評的な枠組み」としてではなく、「構造から映画のような具体的な物語」を導き出すという応用論としてルーカスが受け止めたわけことで、おそらく1990年代後半から2000年代アタマくらいの時期には、この理論は既にハリウッドによってマニュアル化されていたわけです。
私は80年代くらいに編集の仕事をやる中で、角川書店でファミコンのゲームを題材に漫画を出版する仕事に携わったんですね。ゲームと漫画のメディアミックスというのは、今では当たり前のことですが、当時、かなり新しい尖った実践だった。今までは編集者だったのに、いきなり漫画の原作の脚本を書かなきゃいけなくなったんです。しかし私は、大学では民俗学の出身で、卒業論文で「都市伝説の構造分析」というテーマを扱い、物語の分析については既に初歩的なことをやっていた。それを転用すれば、コンピュータゲームに関しても、そういった物語の文法が見つかるだろう、という直感がありました。
手塚治虫の「どろろ」の物語の構造が、遡れば英雄誕生神話、例えばオイディプス神話と共通しているように、それらの物語の構造を残したまま設定や世界観を変えれば、コンピュータゲームの時代に適応する物語も書くことができるだろう、と思ったわけです。
それがきっかけでで、元々編集者だった仕事が、原作者という仕事に結果的にシフトしてしまった。ゲームに関しては、2、3本関わったんだけど、結局"のれ"なくて、降りてしまったんですけどね。自分の好きな方の仕事をずっとやっている、というかたちです。
——ゲームは好きになれませんでしたか。
いくつかやってみたんですけど、時間の無駄なんだという以上の感覚は持てなかった。RPGなどのゲームなら、ストーリー性があるから書籍の方が近いのかな、と思ったら、結局のところはゲームだったんですよね。
ザコの敵を何度も何度も倒したりする、あれツマラないじゃないですか。ゲームをやる人は否定しませんが、僕の人生にはあまり要らないものだな、と感じました。
——なるほど。それは現代のコンピュータゲームが抱えている構造的な問題のひとつですね。ところで、ゲーム開発を生業としている私には大塚先生の書籍「ストーリーメーカー」の中で、プロップの31のステップを踏んで、魔法民話風物語を作るというのはすごく刺激的に思えました。
それ、実は1920年代くらいの社会主義革命直後のソビエトのすごくクラシックな理論なんですよ。民話の構造分析のすごい先駆けなんですけど、それがスターリンによって粛正されてしまった。50年代から60年代にフランスの構造主義の台頭で復活してきて、80年代を席巻したニューアカとか構造主義の文脈の中で、記号論のなかで日本でも盛んに扱われていたわけです。
!doctype>