ジョン・ハリソン (John Harrison)
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John Harrison - Wikipedia
ジョン・ハリソン (John Harrison)
ジョン・ハリソン (1639 年 3 月 24 日 - 1776 年 3 月 24 日) は英国の独学の大工で後に時計製造者になった。 彼は海洋クロノメーターを発明し、 これは海上において東西の位置、あるいは経度を確立するための問題を解くために 長きにわたって渇望された装置であり、 これは革命的なことで、帆船時代 (Age of Sail) に おける安全な長距離航海の可能性を拡大したのである。 問題が非常に手に負えないと思われたので、 英国議会は 20000 ポンド (現在の価値では 287 万ポンド程度) の賞金を問題の解決に提供した。
2002 年の公開投票では、ハリソンは 100 人の最も偉大な英国人の 39 番目となった。
ジョン・ハリソン
P.L. Tassaert のハーフトーンの印画
(Thomas King の 1766 年の肖像画に基づく)
ロンドンの Science and Society Picture Library
初期の生活
ジョン・ハリソンは ウェスト・ヨークシャー のウェークフィールド (Wakefield) の近くの フォールビー (Foulby) で、5 人兄弟の長男として生まれた。 彼の父親は、近くのノステル修道院 (Nostell Priory) の屋敷 (estate) で大工として働いていた。 家族の家庭であったと思われる家には青い飾り板 (plaque) が取り付けられている。
1700 年頃に、家族はノース・リンカンシャー (North Lincolnshire) の村であるバロウ・アポン・ハンバー (Burrow upon Humber) に移住した。 ハリソンは父親の大工としての仕事を引き継ぎ、 暇な時には時計を製造したり、修理したりした。 伝説によれば、6 才の時天然痘で寝たきりとなった時に、 楽しみのために時計が与えられ、 何時間もの間チクタク音に耳を傾け、駆動部を学んだとのことである。
彼はまた音楽にも取りつかれ、 まもなくバロー (Burrow) 教区教会の聖歌隊指揮者となった。
経歴
ハリソンは 1713 年に最初の長箱時計 (longcase clock) を製造した、 これは 彼が 20 才のときであった。 機械部は完全に木製で、これは 指物師 (joiner) の自然な材質の選択であった。 ハリソンの初期の木製の 3 つの時計は現在まで生き延びており、 最初の物 (1713 年) は 時計職同業組合 (Worshipful Company of Clockmakers) のギルドホール (Guildhall) のコレクションで、 第二の物 (1715 年) は サイエンス・ミュージアムにあり、 第三の物 (1717 年) はヨークシャーのノステルの屋敷にあり、 表面には"ジョン・ハリソン・バロー"と刻まれている。 ノステルの実例は、この素晴らしい威厳のある家のビリヤード室に あり、外観はビクトリア様式で、機械装置の両側には小さなガラスの窓が取り付けられ、 これにより木製機械を検査できた。 1720 年代初期に、ハリソンはノースリンカンシャーのブロックレスビー公園 (Brocklesby Park) の 新しい塔時計を製造することを依頼された。 時計は現在でも動作し、 彼のそれ以前の時計と同様に木製の機械部からなり、 オーク (oak) と リグナムバイタ (lignum vitae) で出来ていた。 彼の初期の時計とは異なり、計時機能を改良するために幾つかの独自の特徴を組み込んでおり、 例えばグラスホッパー・エスケープメントがある。 1725 年から 1728 年の間にジョンと弟のジェームズ (James) -- 彼もまた熟練した指物師で -- 少なくとも 3 つの精密振り子時計を製造した。これらも再びリグナムバイタの機械装置を備えた長箱時計であった。 この期間に すのこ型振り子 (grid-iron pendulum) が開発された。 これらの精密時計は当時、世界で最も正確な時計であったと思う人もおり、 海洋時計と著しく直接の関連を持っている。 第一の物は今や個人のコレクションである。もともと 米国の時計博物館 (Time Museum) のコレクションとなっていたが、 2000 年に博物館が閉館となり、2004 年のオークションでコレクションが散逸した。 第二の物は英国、 ウェスト・ヨークシャーの リーズ市博物館/美術館 (Leeds Museums and Galleries) のコレクションである。 現在は展示されていないが 2011 年のある時点から、新規のリーズ市博物館に永久展示されることが 計画されている。 第三の物は時計職同業組合 (Worshipful Company of Clockmakers) のコレクションである。
彼は多くの技術を備えた人物で、 系統的にこれを使用して振り子時計の精度を向上した。 彼の発明した すのこ型振り子 (grid-iron pendulum) は 真鍮と鉄を交互に組み合わせ、異なる膨張率と圧縮率が互いに消しあうようにした。 彼の創造的な天才としての実例にはグラスホッパー・エスケープメントがあり、 これは時計の駆動力をステップごとに制御する装置である。 アンカー・エスケープメントから開発され、 摩擦がほとんどなく、 突起 (pallet) が木製のリグナムバイタから製造されていたため、潤滑油の必要がなかった。 これは当時は重要な利点であった。というのは潤滑油とその劣化がまだほとんど理解されていなかったからである。 ハリソンが初期の海洋時計を製造するのにあたり、 資金面でもそれ以外の点でも ジョージ・グラハムによる絶えざる援助があったことはあまり知られていない。 ジョージ・グラハムは時計製造者且つ装置製造者であり、 1728 年にハリソンがグラハムを訪れ、彼の計時装置の仕組みを説明した後に、 グラハムは信用貸しで多額の資金を提供した。 ハリソンは王立天文官の エドモンド・ハレーによりグラハムに紹介され、 エドモンド・ハレーも又ハリソンとその作品の支持者となった。 この支持が重要であったのは、 ハリソンは首尾一貫した方法で彼のアイデアを伝達することが困難であると言う世評があったからである。
経度
問題の概観
どのようにモル数を見つけるのですか?
経度とは本初子午線 (Prime Meridian) と呼ばれる南北方向の直線から、地球上の東西方向の位置を与えるものである。 経度は本初子午線では 0° を与え、東に +180°, 西に -180° の角度を与える。 多くの解決法が、探検航海の最後に経度を決定するために提案された。 これにより訪問した場所の経度がわかるのである (これは再訪問するのに必要であり、地図に記すのにも必要であった)。 現実的な方法は、地方時間と特定の場所の時刻 (例えばグリニッジやパリ) との比較に依存した。 これらの多くの方法は天体観測に依存し、天体の動きの予測可能な"計時的"な性質に依存した。
ハリソンはこの代わりに、問題を直接解くことを考えた: 信頼できる時計を製造することである。 理論は単純で、 フリシウスにより始めて提唱された。 しかしながら、困難さは時計の製造にあり、 この時計は長い、荒れた航海で、気温、気圧、湿度が大きく変わる状態でも 正確な時刻を維持する必要があった。 フリシウスは経度を決定するには時計が非常に正確でなければならないことに気が付いていた。 多くの主要な科学者は、これにはニュートンやホイヘンスも含まれ、 そのような時計が実際に製造できることに疑念を抱き、 (月からの距離方式のような) 天体観測の方をより楽観視していた。 ホイヘンスは経度を決定するための方法として、 振り子時計も渦巻きバランス・スプリング時計のどちらも試みた。 どちらもある程度良い結果を示したが、 不規則となる傾向があった。 ニュートンが述べる所では「良好な時計は数日間の海上における計測と 天体観測による時刻決定に貢献するかもしれない、このためには良好な宝石で十分かもしれないが、 もっと良い時計が必要であろう。しかし海上で経度を失えば、どのような時計によっても二度と 回復できない」としている。 しかしながら、もしもそのような時計が建造され、旅行の始めにロンドンの正午に時刻合わせをしたのであれば、 それ以後はどの瞬間にもロンドンの正午からどれだけ離れているかを教えてくれる、 しかもこれは場所に依存しない。地方時における正午 (すなわち、その場所で太陽の高度が最も高い時) に、 時計を参照することにより、時計の盤面はほぼ直接的に、 ロンドンからどれほど離れているかを教えてくれる。 例えば時計がロンドン時間で深夜の 12 時で、地方時間では正午であれば、 ロンドンから世界の半周 (すなわち経度で 180°) だけ違っているのである。
これは地球が一定の速度で回転しているからであり、 それ故、太陽のような知られた天体の高度を測定することから、 船舶の東西方向の位置に関しての重要なデータが得られ、 これにより中距離ないしは長距離の旅行の後で陸地に再到達するのに必要なデータが得られるのである。 このような旅行では、推測航法における累積するエラーからしばしば難破し、生命が失われたのである。 海難を避けることが、ハリソンの一生において必須のこととなったのである。 これは、他の技術が成熟したことや、地理政治的 (geo-political) な環境により、 貿易やナビゲーションが全地球的に爆発的に増大した時代であったからである。
正確な時刻なしの計測は緯度を示すのみであり、これは比較的簡単な問題であった。 このような海洋時計は単に長時間高度に正確であるのみならず、 海水の塩分による腐食に影響を比較的受けることがなく、 温度と湿度の多大な変動に耐える必要があり、 強風下や暴風時にはつきものである甲板の極端な傾き、縦揺れ、偏(かた)揺れ においても動作することが可能でなければならないのである。
しかしながら、そのような高精度の計時装置により、まもなく経度を正確に決定することが できるようになり、このような装置は現代では基本的なキーとなるのである。 ハリソンの方式に従い、海洋計時装置が再びジョン・アーノルド (John Arnold) により再発明される。これはハリソンの最も重要な原理にもとづいたデザインによるものであり、 同時に十分に簡略化して、精度を変えずに、はるかに安い海洋クロノメーターを大量に 1783 年頃から 製造したのである。 にもかかわらず、何年もの間、18 世紀の終わりにかけてさえ、 クロノメーターは高価な珍品であり、精密製造と価格の高さにより、 これを採用して使用することは遅々として進展したのみである。 1790 年にアーノルドのパテントの期限が切れることにより、 他の多くの時計製造業者が、これにはトーマス・アーンショー (Thomas Earnshaw) が含まれ、 アーノルドのものよりも安価で大量に製造することとなった。 19 世紀の初頭にはクロノメーターなしの航海は、賢明ではなく、また考えられることもなくなった。 クロノメーターをナビゲーションの助けにすることは単に生命と船舶を救ったのである。 保険業者と、自己防衛、そして常識も手伝って、装置は海洋貿易の究極的な道具となったのである。
最初の 3 つの海洋計時装置
英国の時計製造者であるアンリ・シュリー (Henry Sully) はすでに経度を正確に決定することができる海洋時計 を発明していたが、これは複雑な振り子時計であった。 彼は 1716 年にフランスの 科学アカデミー (Académie des Sciences) に最初の「海の懐中時計」 (Montre de la Mer) を提出し、 1726 年には「シュリー氏により発明され、動かされた時計」(Une Horloge inventée et executée par M. Sulli) と題した本を出版した。 しかしながら、シュリーの時計は振り子の安定した動作に依存していたため、穏やかな天候の時のみ正確に時を刻んだのみであった。
1730 年にハリソンは 経度懸賞を目指すために提案した海洋時計の 説明と図面を完成し、資金援助を求めてロンドンに赴いた。 彼はアイデアを王室天文官である エドモント・ハレーに提示した。 ハレーは英国の最先端の時計製造者である ジョージ・グラハムに紹介をした。 グラハムはハリソンに印象付けられたのに相違ない。 というのは彼は海洋時計の製造のためにハリソンに個人的に資金を貸与したからである。
彼らは何をしたかのテーブルに有名な科学者
ハリソンが、H1 (Harrison Nmber One) を作成するのに 5 年を要した。 彼は 王立学会の会員達に実証し、会員達は彼のために 経度委員会で発言をした。 この時計は委員会が海上試験をする価値があると考えた最初のものであった。 1736 年にハリソンは HMS センチュリオン (HMS Centurion ) でリスボンに旅立ち、 HMS オーフォード (HMS Orford) で帰還した。 帰途において、オーフォードの船長も航海長もそのデザインをほめた。 航海長は自身の計算により、実際の初認陸地を 60 マイルとしたが、 これはハリソンが H1 で予測したものと正確に一致していた。
ハリソンの最初の海時計 (H1)
これは経度委員会で要求された大西洋横断旅行ではなかったが、 委員会は十分に印象付けられ、ハリソンに更なる開発のために £500 を提供した。 ハリソンは H2 の開発に着手した。 これはもっとコンパクトで飾り気のないものであった。 製造に 3 年をかけ、陸上のテストに 2 年をかけて、H2 は 1741 年に 用意が整った。しかしながら、 この時までに英国は オーストリア継承戦争でスペインと戦争状態であり、 機械は非常に重要であったため、 スペインの手に落ちるようなことがあってはならなかった。 いずれにせよ、ハリソンは突然にこの第二の機械を中断した、 このとき彼は棒バランスの概念に深刻なデザイン上の欠陥を 発見したのである。 彼は戦争が終結するのを待つ間に 委員会から再び £500 を提供され、彼はこれを H3 の開発に使用した。 ハリソンはこの第三の「海時計」(sea clock) に 17 年を費やした。 しかし努力の甲斐にもかかわらず、 彼が望んだようには動作しなかった。 にもかかわらず、これは非常に貴重な実験であった。 この機械において、確かにハリソンは不朽の遺産を世に残したのである。 これは バイメタルと 転がり軸受けである。
経度時計
30 年間の実験で、色々な方法を辛抱強く追及した後で、 ハリソンは 1758 年の終わりにロンドンに移住した。 そこでは驚くことに、グラハムの後継者であるトーマス・マッジ (Thomas Mudge) の製造した時計が 彼の大きな海時計と同じように正確に時を刻んでいることに気が付いた。 Mudge が 1740 年代の初頭にこれが可能となったのは 1740 年代の初頭に ベンジャミン・ハンツマンにより製造された新しい「ハンツマン鋼」あるいは 「 るつぼ鋼」 が利用可能となったからである。 この鋼により、より堅い小歯車 (pinion) が利用可能となり、更にもっと重要なことに、 もっと堅牢で高度に研磨された円筒エスケープメントの製造が可能となったのである。 ハリソンは唯の時計も結局の所、計時機能を十分精度を高くすることができ、 海洋計時装置としての使用にも、はるかに現実的な提案であることに気が付いた。 彼は計時装置としての時計のデザインをやり直すことに着手した。 彼のデザインは健全な科学原理に基づいたものである。
彼は 1750 年代初頭に、すでに個人使用のための精密時計をデザインし、 これは時計製造者であるジョン・ジェフリー (John Jeffery) に製造させた (1752 年 - 1753 年頃)。 この時計は新しい「摩擦停止エスケープメント」 (frictional rest escapement) を組み込み、「熱補正」と「動力維持ゼンマイ」 (Maintaining Power) を組み込んだ最初のものであり、 動力維持ゼンマイにより (ゼンマイを) 巻き上げ中にも時計を動作させることができた。 これらの造作 (feature) により、ジェフリー時計の作動が大成功となり、それゆえ ハリソンは製造することを提案した 2 つの新しい計時装置のデザインにこれを組み込んだ。 これらは大きな懐中時計と、より小さいものではあるが類似のデザインの懐中時計であった。 しかしながら、より大きな No.1 (あるいは "H4" と呼ばれる) のみが完成したようである。。 彼はロンドンの最も優れた精密工の助けを借りて、 世界で最初に成功した海洋計時装置のデザインと製造を開始したのである。 ここで言う海洋計時装置とは、これによりナビゲーターが船舶の位置を経度で正確に評価できることを 意味している。重要なことは、ハリソンはこれが可能であることを誰にも示した。 これはハリソンの重要作品 -- 美の装置で当時の大きすぎる懐中時計に類似 -- であった。 これにはハリソンの署名、Number 1 それと 1759 年が刻印されていた。
最初の海洋時計 (marine watch) (ハリソンは「海時計」(sea watch) と呼んだ) は直径 5.1 インチの銀の器に収納されていた。 動作装置には新しい型式のエスケープメントが採用され、これは「摩擦停止型式」と分類することができるが、 表面的にはバージ・エスケープメントに似ているため、間違えて バージエスケープメントと結び付けられている。 このエスケープメントのパレット (pallet) はどちらもダイヤモンドでできており、 当時の技術の偉業である。バランス・スプリングは平らなラセンではあるが、 技術的な理由からバランスそれ自身は当時の通常の懐中時計よりも大きなものが採用され、 動作装置 (movement) には速く動く秒針用の装置もあった。 第三の輪に内向きの歯が付き、精巧な軸受けがあり、穿孔したり、刻み込んだりした当時の軸受けと同様なものであった。 これは 1 秒間に 5 回カチカチし (5 ビートで動き)、小さな ルモントワールを備えていた。 バランス制動装置が時計を完全停止させるために半時間必要であった。 これは、ルモントワールも同時に停止させないようにするためであった。
「熱補正」(temparature compensation) は補正拘束 (compensation curb) (ハリソンは温度計拘束 (Thermometer Kirb) と 呼んでいる) によっていた。 これは調整スライドに搭載されたバイメタル金属片の形で提供され、 (バイメタル金属片の) 固定されていない端に拘束ピンが付いていた。 No. 4 を開発中にスライドを使用した調整を不要にしたが、指示ダイヤル、あるいは数値板はそのまま残した。
マリー·キュリーは、科学者のどのようなものだった
H4 は建造するのに 6 年かかり、ハリソンはすでに 68 才になっており、 大西洋横断試験は 1761 年に彼の子息ウィリアムの手にゆだねられた。 HMS Deptford がジャマイカに達した時に時計は 5 秒遅れ、 これは経度で 1.25 分、およそ一海里のエラーに相当した。 船が帰還した時、ハリソンは £20,000 の賞金を待ち望んだ。 しかし、経度委員会は精度が偶然であると考え、再試験を要求した。 ハリソンは激高し、賞金を要求した。 問題は間もなく議会に到達し、議会はそのデザインに £5,000 を提供した。 ハリソンは拒絶したが、まもなく問題を解決するためにカリブ海の バルバドスの都市であるブリッジタウンに航海することを余儀なくされた。
ハリソンの海時計 (H4) とゼンマイ巻き器
この試験には経度を測定するための別の方式が用意されていた。 すなわち「月からの距離方式」 (月距法、Method of Lunar distance) である。 月は随分速く、1 日に 13 度動き、日々の動きを容易に測定できる。 英国を出発した時の月と太陽の角度と比較することにより、 月の「適切な位置」(英国のグリニッジにおける特定の時刻の見え方) が計算される。 これを水平線上の月の角度と比較することにより、経度が計算される。
H4 の第二の試験の最中に、 ネヴィル・マスケリン師は HMS Tartar に随行し、「月からの距離」システムをテストするように 求められた。 H4 は再び、非常に正確であることがわかり、 39 秒以内で、 ブリッジタウンにおける経度のエラーは 10 マイル (16 km) のエラーに対応した。 マスケリンの測定も極めてよく 30 マイル (48 km) であったが、 使用するためには多大な労力と計算が必要であった。 1765 年の経度委員会の会合で、結果が提示された。しかし、再び、測定の正確さは偶然によるものとされた。 再び、問題は議会に到達し、議会は前金で £10,000 を提供し、 残りの半分は時計のデザインが複製のために他の時製造者に手渡された時に支払うこととした。 この間 H4 は長時間の地上のテストのために王室天文官に引き渡された。
不幸なことに、バルバドスから帰ると、ネヴィル・マスケリンは王室天文官に任命され、 従って経度委員会にも名を連ねることになった。 彼は H4 の否定的な報告書を提出し、 時計の進行率、すなわち 1 日の間に遅れたり、進んだりする時間の量は 実際は不正確で、経度測定の際に考慮することを拒否した。 その結果 H4 はそれ以前の 2 回の試験で実際は成功であったのにもかかわらず、 経度委員会の必要性に応えられなかったのである。
ハリソンは H4 の試験が実施されていたため、H5 で仕事を開始した。 実の所 H4 は委員会により人質となったのである。 3 年たって、もうたくさんとなり、 ハリソンは「よい取り扱いを期待した紳士達に極端に冷遇された」と感じ、 ジョージ3世の助けを得る決意をした。彼は王の謁見を得ることができ、 王は委員会のことに非常に困惑することとなった。 ジョージ3世は宮廷で H5 を自身でテストし、 1772 年の 5 月から 7 月まで毎日 10 週間の観測をし、一日あたり 1/3 秒以内の精度であることを発見した。 そこでジョージ3世はハリソンに議会に賞金の全額を嘆願することを薦め、 一方議会には自ら議会に登場し、叱責するとおどした。 1773 年にハリソンが 80 才になったときに、議会は 彼の業績に対して £8,750 を授与した。 しかしながら、公的な賞金 (これは誰にも授与されなかった) を受け取ることはなかった。 彼はその後 3 年を生き延びただけである。 ハリソンはクロノメーターにおける仕事で 全部で £23,065 を受け取った。 彼は、経度委員会から、彼の仕事により少しずつ全部で £4,315 を受け取り、 1765 年における H4 の当座の支払いとして £10,000 を受け取り、 1773 年に議会から £8,750 を受け取った。 これは彼にほとんど一生を通じて、相応な収入を与えたことになった (これは 2007 年では一年あたり £45,000 に相当する。しかしながら 材料や他の時計業者に仕事を下請けに出した時などの経費は含まれていない。) 彼は一生の最後の 10 年間には (今日の価値では) 数百万長者となった。
ジェームス・クック船長は 2 回目の航海に H4 のコピーである K1 を使用した。 K1 はジョン・ジェフリーの徒弟であったラーカム・ケンドール (Larcum Kendall) によって製造された。 クックの航海日誌は時計に対しての賛辞で満ち満ちており、 この時計で作成した南太平洋の海図はとても正確であった。K2 は HMS バウンティ (Bounty) に積み込まれ、 ピトケアン島 (Picairn Island) で回収され、 何度も人手を渡り、最後にはロンドンの国立海洋博物館に収納された。
初期には海洋クロノメーターの価格は極めて高価であった (およそ船の価格の 30%)。 しかしながら時間と共に価格は下落し、 19 世紀初頭には £25 から £100 となった (これはおよそ技能労働者 (skilled worker) の 半年から 2 年程度の給与に等しい)。 多くの歴史家は比較的に製造台数が少ないことからクロノメーターは 広く使用されたのではないとしている。 しかしながら、Landes が指摘するようにクロノメーターは何十年も使用でき、 頻繁に取り換える必要がない。 -- 実の所、海洋クロノメーターの製造業者の数は海洋貿易が拡大したのにもかかわらず、 需要の低迷から時間と共に減少したのである。 ひいては多くの商船の船乗りは半額の甲板時計 (deck chronometer) で処理できた。 これらの時計は箱に入れられた海洋クロノメーターほど正確ではなかったが、 多くの人にとり適切なものであった。 「月からの距離方式」は当初海洋クロノメーターの補完をし、 又敵対関係でもあったが、クロノメーターは 19 世紀にはこれを凌駕することになったのである。
彼を思い出すもの (Memorials)
ハリソンは彼の 83 回目の誕生日に逝去し、ハムステッド (Hampstead) のセント・ジョン教会に 二番目の妻のエリザベスと子息のウィリアムと共に葬られている。 彼の墓は 1879 年に時計職同業組合 (Worshipful Company of Clockmakers) によって修復された。
ハリソンの埋葬地
セント・ジョン教会の墓地
ハリソンの最後の家は、ロンドンのレッド・ライオン・スクエア (Red Lion Square) にあり 地下鉄の ホルボーン駅から歩いてすぐの所である。 広場の南側のサミット・ハウス (Summit House) の壁には ハリソンにささげた飾り板 (plaque) がある。 ハリソンを記念した銘板 (tablet) が 2006 年の 5 月 26 日に ウェストミンスター修道院 (Westminster Abbey) で除幕し、 終に彼は友人の ジョージ・グラハム とトーマス・トンピオン (Thomas Tompion) と同格と認められたのである。 「英国の時計作りの父」(The Father of English Watchmaking) は 2 人とも修道院に葬られているからである。 銘板は 2 つの金属で子午線を表示しており、 ハリソンの最も広範囲な発明である「バイメタル金属板の温度計」を強調している。 金属板には、その場所の経度である西経 0 度 7 分 35 秒が刻印されている。
2008 年に除幕したケンブリッジのコーパス・クロック (Corpus Clock) は ハリソンの仕事に対しての敬意を表すものである。 ハリソンのグラスホッパー・エスケープメントが -- これが実際のグラスホッパーのように彫刻され -- 時計の明示的な造作 (defining feature) である。 もっとも「グラスホッパー」の名称は 19 世紀のロマンチックな空想であり、 ハリソン自身は恐らくは、「軸付け突起を持つ等時的アンカー・エスケープメント」 (isochronal anchor escapement with pivoted pallets) と正確に定義したことであろう。
その後の歴史
第一次世界大戦後にハリソンの時計は王立グリニッジ天文台で 退役した海軍少佐であるルパート・T・グールド (Rupert T. Gould) により再発見された。 ハリソンの時計は非常に老朽化した状態であった。 そこでグールドは無償で時計に関して文書で裏付けをし、修理し、そして修復をした。 クロノメーターに H1 から H5 の名称を与えたのはハリソンではなく、グールドである。 当初ハリソンは単純に No.1 から No.5 と呼んでいた。 不幸なことにグールドは、これらの機械に彼自身の修正と修復を行い、 これは今日の博物館における良好な保存方法の標準には合格しない。 しかしながら、ハリソンの研究者たちは、歴史的遺物が今日あるように動作する機械として 生き延びえたのはグールドによるものと認めている。 グールドは「海洋クロノメーター」の著者で、 この本ではクロノメーターの歴史を中世から 1920 年まで網羅している。 この本にはハリソンの作品とその後のクロノメーターの進化に関しての詳細な描写がある。 これは海洋クロノメーターの権威ある本である。
今日修復された H1, H2, H3 と H4 はグリニッジの王立天文台の国立海洋博物館に陳列してあるのを見ることができる。 H1, H2, H3 はいまだに動いているが、H4 は動作していない。 というのは最初の 3 つと異なり、H4 は潤滑油が必要で、動作すれば摩耗するからである。 H5 はロンドンの時計職同業組合 (Worshipful Company of Clockmakers) が所有し、 ロンドン、ギルドホールの同業組合の博物館に展示され、同業組合のコレクションの 1 つである。
ハリソンは晩年には、音楽の調律と鐘の製造法の研究に関して本を書いている。 彼の調律システム (パイに由来する中間音システム) が彼の本「.... に関するメカニズム」に述べられている。 整数比の周波数で調和が起きることに関して伝統的な観点に挑戦し、 その結果低周波で生み出されるこの調律を使用した全ての音楽に挑戦している。 「音楽の基礎、ないしはメロディーの自然音調、の真の完全な解説、」 (A true full Account of the Foundation of Musick, or, as principally therein, of the Existence of the Natural Notes of Melody) が アメリカ議会図書館で再発見されている。 鐘の製造に関しての彼の (平方根を使用した) 数学の理論はまだ明白に理解されていない。
テレビとドラマ
1995 年のハーバード大学における 「懐中時計と時計の収集家の国内協会」(National Association of Watch and Clock Collectors) によって組織された「経度問題のシンポジウム」に引き続き、 デーヴァ・ソベル (Dava Sobel) はジョン・ハリソンの発明の歴史の年代記を書いた、 その表題は「経度:当時の偉大な科学の問題を解いた孤独な天才の真の物語」であった。 時計学の歴史家はソベルが事件を劇的すぎる表現をしている -- これには例えばハリソンとマスケリンの間の衝突がある -- と考えているが、彼女の本は時計に焦点を合わせた全く始めての人気の高いベストセラーとなった。
ウィリアム J.H. アンドリュース (William J.H. Andrews) と共著の挿絵入りの本は 1998 年に印刷され、表題は「挿絵入りの経度」であった。 ソベルの本は Charles Sturridge によって、英国テレビ番組のために脚色され、 グラナダ・プロダクションにより 1999 年に「経度」の題で 4 チャンネルで放送され、 共同制作した A & E により同年にアメリカで遅れて放送された。 ドラマではハリソンを Michael Gambon が演じ、ルパート・T・グールドを Jeremy Irons が演じた。
ソベルの本は PBS NOVA のエピソード「海で迷う:経度の探求」(Lost at Sea: The Search for Longitude) の基礎にもなっている。 英国のロングランとなった連続ホームコメディー「Only Fools and Horses」(馬鹿と馬のみ) のクリスマス特集の筋書きの基本的な部分はハリソンの海洋計時装置であった。 「時をわが手に」と題し、 Del Boy が何世紀もの間失われていた海洋計時装置を所有していることに気が付き、 これにより間もなく サザビーズのオークションで 6.2 百万ポンドを得る話である。 ハリソンの記録と線画から H6 が製造されたことが示唆されるが、 決して見つかっていない。 これは大きすぎる懐中時計に似ており、 ハリソンの研究家たちはいまだに、どこかの屋根裏部屋で発見されることを夢見ている。
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