第278回活動記録
2009年3月21日の新聞(読売、毎日、朝日は夕刊)で「奈良県桜井市の纒向遺跡で、 計画的に建てられたとみられる3世紀前半〜中頃の3棟の建物跡が確認された。」ことが報道された。
纏向遺跡は、邪馬台国畿内説を採った場合、都の最有力候補とされており、桜井市教育委員会は、卑弥呼の時代の遺跡中枢部の一端が明らかになったとしている。
この報道についていくつかの論点がある。
■ 本当に3世紀前半〜中頃という年代なのか
この年代は庄内式土器によって判断されたものである。庄内式土器の年代の決め方については、石野博信先生と昨年対談した時に話題としたが、石野先生は年代を次のように決めていると解説された。
まず、古い方は王莽の新の時代(8〜23年)の貨泉で決め、新しい方は5世紀ごろに現れた須恵器で決めると言うことであった。そして、その間に土器の型式がいくつあるかを調査し、年代を割り振る。そうすると、庄内式土器の時期がおよそ250年代になり、纏向遺跡の年代も決まってくる。
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これに対し、安本先生は、古い方は洛陽の焼溝漢墓(190年頃)で決め、新しい方は 洛陽晋墓(300年頃)で決めるとする。
これらの墓からは、多くの鏡が出土するので、鏡の年代が決まる。蝙蝠鈕座内行花文鏡は両方の墓から共通に出土する鏡であり、190〜300ごろの邪馬台国の時代に中国で盛んに用いられた鏡である。
邪馬台国時代の蝙蝠鈕座内向花紋鏡が、日本では九州から多数出土する。この時代の鏡の分布の中心は九州に在ったと言うことである。
石野先生の方法と安本先生の方法を比べると、焼溝漢墓と洛陽晋墓で年代を押さえたほうが、年代幅が狭いし、両墓とも墓誌が出いるので年代がはっきりしている。
貨泉は日本に来るまでの時間が判らないので年代を明確に決められない。
安本先生は庄内式土器の時代は卑弥呼の時代よりも少しのちの時代と考えている。
■ 建物と「王権」「都」とは結びつくのか
『魏志倭人伝』には、「宮室、楼観、城柵、おごそかに設け」と記されているが、中国人のいう城柵とは吉野ヶ里のように一定の地域を囲うものと考えられるので、今回発掘された柵は城柵とは言えない。
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また、楼観もないようなので、立派な建物があったという程度のものである。
これを「王権の中枢施設の一角(毎日新聞)」というように、すぐに王権と結びつけたり、「卑弥呼の宮殿か(産経新聞)」などとするのは解釈の行き過ぎである。
■ 『魏志倭人伝』に記されている事物が出土したわけではない。
畿内説を説く研究者の共通の欠点は、『魏志倭人伝』から離れて議論をすることである。
今回の発掘でも、鉄の鏃や中国北方系の魏代の鏡などが出土したわけではない。建物があったとか土器があったとかは間接証拠、状況証拠でしかない。これらは『魏志倭人伝』の記述に直接結びつくわけではない。
『魏志倭人伝』に記されている事物でみれば、ことごとく九州のほうが多く出土する。近畿からの出土は非常に少ない。この事実を畿内説の学者はまったく考えていないのではないか。
間接証拠を並べて解釈を重ね、新聞報道すれば良しとしている。
■ 土器の年代
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下図に示すように、1970年頃は、石野博信氏や佐原眞氏、都出比呂志氏などは、庄内式土器を西暦300年以降の土器と見ていた。布留式土器はそのあとの古墳時代の土器と見ていた。
ところが、1980年代になると、庄内式土器は200年代前半にまで遡り、都出氏は布留式土器も3世紀後半にまで古くした。
この間、考古学的には特に新しい発見があったわけではないが、「年輪年代法」の登場で、遺跡から出土した木材の年代が大変古く出たことで、一斉に年代の前倒しが行われたように見える。
しかし、「年輪年代法」で測定した年代を遺跡の年代とするには疑問が残る。木材を伐採した年代と使用した年代とは異なるからである。
木材は伐採した後、長期間寝かせることがある。また、再利用や、風倒木の利用などでも、使用年代と年輪年代が大きく違ってくる。
また、最近では、土器付着物の炭素14年代測定が盛んに行われ、これによって庄内式土器の年代もかなり古いという主張がある。
しかし、桃の核やクルミの殻などの分析と比較すると、土器付着物は100年あるいはそれ以上古い値が出るという事例が数多く報告されてきているので、予断を持たずに公正な立場から正確に分析すべきである。
邪馬台国畿内説は、「はじめに畿内説ありき」の立場に立つ考古学者たちの、遺跡・遺物の恣意的な解釈とマスコミ宣伝によって成立している。 実証によって成立しているのではない。
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