2012年5月12日土曜日

Wise9 › 「構造から物語を作る」大塚英志先生に聞いた物語の作り方。そこから垣間見えるゲームとコンピュータの未来像


「物語消費論」や「キャラクターメーカー」「ストーリーメーカー」などの著作で知られる、批評家、漫画原作者として高名な大塚英志氏。

今回は、そんな大塚先生の著作に感銘を受けたwise9編集長、shi3zが恐れ多くも大塚先生にインタビュー取材を敢行。「コンピータもゲームも自分の人生に必要ない」と断言する大塚先生にコンピュータとゲームしか人生に存在しないwise9編集部が聞く!




——本日は取材に応じて頂いてありがとうございます。まず失礼ですが、あらためて大塚先生の経歴をお聞きしてもよろしいでしょうか。

僕の仕事はもともと、今もそうだけど「漫画の原作者」です。ほとんど角川書店の専属に近いですね。「多重人格探偵サイコ」シリーズの作品など、何本かの漫画のシナリオを書くのが今の仕事です。

——大学で教鞭を執ったきっかけはどういったものですか?

5年前に「神戸芸術工科大学」のメディア表現学科というメディア系の大学が立ち上がるということになったときに、カリキュラムから作らせてくれる、ということだったので、「まんがの教え方をゼロからつくる」ことを面白く感じたことがきっかけ。その学科のカリキュラムを作りながら、教員をやっています。職業はその2つですね。

——カリキュラムから、つまりゼロから学科を創設されたわけですね。

ぶっちゃけた話を言うと、文科省の方針で、5,6年前にコンテンツ系の大学や学部学科の乱立というものがあったんですが、このような大学というのは元々に日本になかったものなので、どの大学もアメリカの映画系の大学のカリキュラムを参考にしたのです。 (参考: Wikipedia – 映画学)

でも、アメリカのカリキュラムを右から左に持って来ただけなので「じゃあいったい何をやるのか」という内容がなかったんですね。

もともとこのような構造的物語論というのはアメリカではごく当たり前にストーリーづくりに実用化されているものです。

有名なのは、映画「スターウォーズ」のプロットを作るとき、監督のジョージ・ルーカスが神話学者ジョーゼフ・キャンベルに弟子入りのようなことをしているんですよね (参考: ジョゼフ・キャンベル「千の顔を持つ英雄」)。文化人類学の神話分析の中の論理フレーム、という古典的なものを、「批評的な枠組み」としてではなく、「構造から映画のような具体的な物語」を導き出すという応用論としてルーカスが受け止めたわけことで、おそらく1990年代後半から2000年代アタマくらいの時期には、この理論は既にハリウッドによってマニュアル化されていたわけです。

私は80年代くらいに編集の仕事をやる中で、角川書店でファミコンのゲームを題材に漫画を出版する仕事に携わったんですね。ゲームと漫画のメディアミックスというのは、今では当たり前のことですが、当時、かなり新しい尖った実践だった。今までは編集者だったのに、いきなり漫画の原作の脚本を書かなきゃいけなくなったんです。しかし私は、大学では民俗学の出身で、卒業論文で「都市伝説の構造分析」というテーマを扱い、物語の分析については既に初歩的なことをやっていた。それを転用すれば、コンピュータゲームに関しても、そういった物語の文法が見つかるだろう、という直感がありました。

手塚治虫の「どろろ」の物語の構造が、遡れば英雄誕生神話、例えばオイディプス神話と共通しているように、それらの物語の構造を残したまま設定や世界観を変えれば、コンピュータゲームの時代に適応する物語も書くことができるだろう、と思ったわけです。

それがきっかけでで、元々編集者だった仕事が、原作者という仕事に結果的にシフトしてしまった。ゲームに関しては、2、3本関わったんだけど、結局"のれ"なくて、降りてしまったんですけどね。自分の好きな方の仕事をずっとやっている、というかたちです。

——ゲームは好きになれませんでしたか。

いくつかやってみたんですけど、時間の無駄なんだという以上の感覚は持てなかった。RPGなどのゲームなら、ストーリー性があるから書籍の方が近いのかな、と思ったら、結局のところはゲームだったんですよね。

ザコの敵を何度も何度も倒したりする、あれツマラないじゃないですか。ゲームをやる人は否定しませんが、僕の人生にはあまり要らないものだな、と感じました。

——なるほど。それは現代のコンピュータゲームが抱えている構造的な問題のひとつですね。ところで、ゲーム開発を生業としている私には大塚先生の書籍「ストーリーメーカー」の中で、プロップの31のステップを踏んで、魔法民話風物語を作るというのはすごく刺激的に思えました。

それ、実は1920年代くらいの社会主義革命直後のソビエトのすごくクラシックな理論なんですよ。民話の構造分析のすごい先駆けなんですけど、それがスターリンによって粛正されてしまった。50年代から60年代にフランスの構造主義の台頭で復活してきて、80年代を席巻したニューアカとか構造主義の文脈の中で、記号論のなかで日本でも盛んに扱われていたわけです。


実験は何ですか?

記号論というのはつまり情報論なわけ。「ストーリーメーカー」について、みなさんと同様にIT系の仕事をなさる企業の方々から興味を持って頂くことが多いんです。

プロップの民話分析理論や、1920年代のソビエトの文芸批評理論というのが、いまの情報理論の根源になっているのだと思います。だからITのみなさんの琴線に触れるのだとは思うんですけど。でも、ぼく自身は情報論には興味がない。ぼく自身はコンピュータを触りませんしね。

——まったく触らないんですか? それでは、いただいたメールは…。

スタッフに読み上げてもらったメールに対して、口頭で返事をしてそれを打って貰うということをしています。さすがにメールの受信はとりあえずできるようにしたけれども、キーボードを触る気にはどうしてもなれない。指一本でしかたなくメールを開いている、それ以上のことはしません。

——キーボードを触る気にならない、というのは、生理的に受け付けない、ということでしょうか。

言葉をいちどアルファベットに変換するという行為がダメなんですよね。「そんなことはない、指と頭が別に動くようになる」とみんないうんですけど、そうなる前の段階において、ローマ字に対する日本語からの変換ということを、生理的に受け付けられないんです。

——現代ではなかなか贅沢な生き方かもしれませんね。かな入力にすれば解決できるような問題でもなさそうですし。

コンピュータと物語論

——大塚先生はコンピュータをあんまり受け付けない、ゲームは好きじゃない、とおっしゃりながらも、我々プログラマの視点からみたらコンピュータ的な発想から、ロジカルに物語を作っているように感じるんですよね。それはさきほどおっしゃったように、記号論や情報論の源流に物語論があったというのもひとつの原因かもしれませんが

僕がやっていることというのは、他の国では普通のことなんですよ。例えばアメリカでは、僕のように物語論的なフレームを基にシナリオを作るというのは、すごく一般的なことで、すでにマニュアル化されているといってもいい。僕の作品を何度か海外で映画化する話が持ち上がったときに、海外の人間たちと話していると、彼らの考えかたはものすごく構造論的、物語論的なんですよ。

ぼくはよく知らないけれども、アメリカの大学では、工科大学の中で、物語論的なことをやっている人がいるような感じ。工学系の文学部というのが向こうにはボンヤリあるような気がするんですよ。日本でもプロップなんかの論文は、工科系の大学で情報論とかゲームについて論文を書くような学者が引用している。ぼくとしては「懐かしいな」というか、「考え方は似てるんだろうけど、彼らとの接点はないんだろうな」と思いながら見ているんですね。

——「ストーリーメーカー」では30の質問をベースに物語を作っていくというやり方を採用していて、それがすごく斬新に思えました。

実は「ストーリーメーカー」については、アメリカに「ドラマティカ」というストーリー製作補助ソフトというものがもとにあるんでよね。

——「ドラマティカ」は有名ですね。物語を構造的に作成するためのツールとしてプロフェッショナルが利用するための機能が全て盛り込まれている。非常に高価ですが、プロが使うと思えば納得できます。

ソフトは基本的にストーリーの構造に、ある質問に答えながら押し込んでいくような仕組みだったので、そこだけに特化したものがあればと思って、簡易版のアプリケーションを作ろうと思ったんですよ。僕自身はコンピュータには触らないんだけど、まわりにはそういうのが好きな人がいたので、その開発を検討していたんですが、実際の試作品を触ってみるとなんのこっちゃない、「これは質問票で十分だろう」という話になったんです。

質問票のドラフトを作って、大学の講義などでテストしながら項目を修正した結果、この書籍「ストーリーメーカー」が生まれた。

——面白いですね。

ゲームと神話生成機械

——先ほどの「ゲームはつまらない」という話に戻りますが、先生が「物語消費論」を書かれていた時代、やっぱりゲームはつまらないものが多かった。まあ、今おもしろいゲームが多いかといわれれば分かんないんですけど(笑)
実は僕も、ザコ敵を倒し続けるゲームは嫌いだった。どうしてザコ敵を倒し続けるようなゲームが多いかということを、そういったゲームを作っていた当時のゲーム開発会社の社長に聞いたことがあったんですけどね。それは「ゲーム流通の要請だ」ということを言っていました。
コンシューマ向けのソフトを、例えば5,000円で売るとしたら、これくらいの時間は遊べなければ行けない、という要請があったんです。だからああいったシステムが導入された。あのころは、ゲーム産業が盛り上がると同時に、モノとしては堕落していくプロセスだったのかもしれません。

実はコンピュータゲームが登場する前、私は少しだけゲームに興味が思ったことがあって。

——コンピュータゲームが登場する以前のゲーム、アナログゲームでしょうか


生物の生活の組織のレベルは何ですか

安田均さんの「神話製作機械論」という評論の中にアドベンチャーゲームで一回プレイするごとにそれが小説として出力されるゲームのことが紹介されていて、ぼくはコンピューターゲームは物語を自動生成するシステムに進化するのかと思っていた。

TRPGでは、枠組みの中に物語が出来ていく過程で、一回性が生まれる。しかしコンピューターゲームは、その創造的な作業そのものをコンピュータに任せてしまう。この時点で、コンピュータゲームはゲームとして終わっていたんですね。

——我々自身、「感動を生むゲーム」を作り出したくて常に試行錯誤しているのですが、とても難しい仕事です。構造から物語を作り出すように、人工的に「感動」を作るにはどうすれば良いのでしょうか。

それは少し話が違うかもしれません。感動というのは物語の構造の中に含まれるのではなく、感情的な水準のコントロールによって生まれるものだと考えています。私が今まで語ってきた「物語」というはプロットレベルの管理を指していて、構造に従った物語を作ったからと言って、素晴らしいものが書けるワケじゃない。物語=プロットを脚本に落とし込むときは他の理論があるんです。

——なるほど。「感動を作り出す」ためには、また別の理論が必要だということですね。

他にも文体の問題とか、キャラクターの問題もありますね。たとえば読者の代理=アバターとなるキャラクターをどこに持ってくるか。よく「小説を読むとき、ヒトは主人公に感情移入する」ということが言われますが、あれはウソです。主人公だけじゃない、むしろサブキャラクターの境遇に自分を重ね合わせてしまうということは多々あります。どのキャラクターを読者のアバターとするかを定める作業を、物語の作り手は意識的/無意識的に行っています。

——先生のお考えになる「良い物語」とはなんでしょうか。また、「良い物語」を書くにはどうしたらいいですか。

読み手は無意識に、物語を自分の「物語のコード」によって読み取ろうとしてしまう。この映画の意味がわかった、オチが分かったとか、「おもしろかった」というふうに、やや難解な映画に対して、終わった後に意味のすりあわせをするでしょう。そういうときに使われているのが「物語のコード」なわけです。物語の構造に無自覚なまま、表層的にアヴァンギャルドなものを作ろうとして、結果としては従来の物語のコードの中にしか収まらないような陳腐なアート作品を作ってしまうこと。これは本当につまらない。そういう水準の中で読まれてしまうわけだから。

逆にきちんと、映画やゲームなどのストーリーを作っていくのであれば、まずプロットのレベルから、物語に対する管理がもう少し必要だと思いますね。

——そこは、まだ完全には研究されていない分野なんですか。

脚本の中においては、8フェイジスや三幕構成論とか、一応色々、ある。頭から最後までどういうリズムでプロットを配置していくのか、というシナリオ構成の考え方ですね。ただこれはあくまで2時間という尺の中での話であって、例えば連載漫画のシナリオはまた話が違います。ジャンルの違いから先に関して、はまだ職人芸の領域ですね。作家ごとに言えば、「この人のやり方はこうなんだ」という構造が存在し、こういう感動のさせ方がある、ということは言えますが、完全にルールとして読み解かれているわけではありません。

——ちょっと安心しました(笑)

ゲームデザイナーの方の中には、感動というのとは少し違うけど、期待値みたいな数値をプレイヤーに抱かせて、このくらいのバランスでその期待値を裏切っていけば、プレイヤーは面白いと感じる、という風に考える人もいますよね。こっちから見ると、ゲームの畑の人たちは、感動みたいなものを数値で管理しようとしているのは面白いな、と感じることはありますね。

物語を構造から捉える意味

——大塚先生は物語というものを、「構造」と「意味」に切り分けられて捉えられていますね。この二つは一体として扱われがちなので、この考え方が新鮮に感じられました。

いわゆる「感動」というのは不確かで情緒的なもので、意味論のレイヤーに乗っている「情緒的なもの」に関してはいったん極力排除してしまった方が、「物語全体が情緒的・神秘的なものだ」というドグマから離れることができるんですよね。

ぼくが一時期文芸批評みたいなことをやっていたことがあって、そういうときにこういった本を書き始めたんだけど、小説家たちは自分が小説を書くことを神秘化しすぎるわけで。要するに、村上春樹だったら、野球場で空を見ていたら突然物語がおりてきたとか、林真理子だったら、自分はあたかも小説を書くように運命づけられたとか。それは「嘘付けよ」という話なんですよね(笑)


衝撃波バーガー

本当は、「小説を書く能力というのは、ある程度までは後天的に学習可能なスキルである」ということは80年代を通過してきた小説家たちには自明なことです。村上春樹はどう見ても、キャンベルやプロップの物語理論を使って書いているではないか、ということを、蓮実重彦は80年代にちゃんと言っていた。中上健次だって、そういうことを平然と公の席で言っていたのにもかかわらず、「80年代に、日本の小説家たちが構造的な小説を目指していた」という事実そのものが無かったことになっているのは、どうなのか、という話。

村上春樹や中上健次が作家になるプロセスの中でがやってきたことのうち多くは「後天的に学習可能なこと」だとすると、そういった「学習可能な領域」と、「作家たちの特権的な能力が必要な領域」への境界線というのはどこにあるのか、という話になってきますよね。そのときに「物語論」という技術論があれば、この技術で再現できる部分までは一般化できるであろう、その先はまだ分からない、とある程度の線引きができます。

他には例えば言葉のレベルであれば、「文体論」という考え方があります。これはむしろコンピュータの文脈の方になじみがありますよね。文章をデータベースとして捉え、そこからサンプリングして順列組み合わせをやってくときの偏差、というのをいわゆる「文体」として捉える。それを古典の文学研究とかで、出てくる単語とその接続の仕方みたいなところから、作者を特定していくとか、そういうことが可能になってくるわけですよね。

この一種のデータベースさえあれば、言ってしまえば村上春樹風の文体の文章を書くことは可能ですし、それに類するようなおもちゃめいたプログラムはすでに世に溢れています。僕の所にいる院生も、漱石のような文体で説教する猫耳のキャラクターを作って遊んでいますが…、「文体論」なんて実は院生レベルのいたずらなんですよね。

「物語の構造」は決まっている。「文体」は再現可能である。そうして線引きをして「小説を書く」という行為をどんどん追い詰めていくと、最終的に何が残るのか、というと、非常に厳しい話になってくる。でも、そこに残るものを僕は否定することはしません。追い詰めていけば、人間に固有のものが何か残るでしょ、というのが僕のシンプルなスタンスです。

——実際、大学の授業とかでもこういうお話をされているんですか。

基本的に、90分の講義を年間30回、もっとこれを詳しく、具体的な課題とその検証みたいなことをやっています。本を読んで物語が書ければ苦労はしないわけで、実際にそれを一定の量こなさなかったらたぶん身につくものではない。文法の本を一回読んで英語がしゃべれるはずはないし、ということですよね。

——ときどき企業内での研修もご担当されるとのことですが、物語の作り方ということを講義されるんですか?

企業ではなくて中学生や高校生相手のワークショップです。例えば「1冊の絵本を書かせる」と言うことをします。この「きみはひとりでどこかにいく」という書籍をプリントアウトさせたものを配って、書きあげてもある。

要するにこれは、物語の構造を、未完成な絵本にしたんです。5年ぐらい前につくったものです。構造しかない絵本に絵を描き込んでもらうことで、構造に従った絵本ができるんだけども、1,000くらい事例を集めてみても、全部違うものができる。

この構造にどういう要素を付け加えるかどうかによって違うものができるし、このパターン物語論的に見ると妥当な付け加え方をするわけです。単純に同じアイデアが入ったとしても、絵本としての優劣は出てくる。構造的な入れ物の中になにかを入れると言うことは独創性を剥奪することはない。むしろそこを経由した向こうに固有の物語とか、個人的な物語とか、個性というものがあるんでしょう、というお話をしようと考えています。

——これは素晴らしいですね。

中学校や高校の授業とかにはよくいますよ。うちの学校のAO入試に使ったこともありますよ。文科省が最近のAO入試の傾向について文句を言うもんだから、「それならガチのAO入試をやってやろう」ということで使ったりしました。

——大塚先生の授業や講義の基本は、「構造にのっとって物語を書かせる」ということですよね。その目標というのは? 構造を脱すること?

脱しようと思わなくても、構造を崩すことはできます。外国人の日本語と、日本人の日本語を比べると、日本人の日本語の方がはるかに砕けた言葉を使うでしょ。つまり使いこなせてしまえば、それは自分なりのブロークンのものになってしまうんです。何もない状態で崩しても、伝わらないものができてしまう。崩したつもりで、また別の構造にとらわれている、ということもよくある。

絵本やシナリオを書かせても、構造を意識して書かせるということを繰り返し繰り返しやっていくうちに、構造の崩し方、構造の壊し方というのは、各自勝手に学んでしまうものなんですよね。

「あの時と同じことを、今やっている」


——最近、私たちは物語を語る手段としてのゲームというのは、まだちゃんと成立していないな、という気がしていて。そのあたりをもうすこし踏み込んだ形で考えられないか、と思っているのですが

おそらくゲームやITの業界の皆さんが考えられていることって、80年代の終わりにすでにあったことなんですよ。89年から90年くらいの2年だけ、ぼくは若気の至りで、広告業界と付き合ってマーケッターめいたことをやっていたんです。そのときに「ストーリーマーケティング」っていう考え方の基礎を作ると言うことをしていたんですね。今のソフトバンクのCMみたいに、バラバラの物語をどう見せていくかという手法の枠組みにあたるものですね。

最近のバイラルマーケティングや、ティザーのように断片的な情報を流していくこと、またARG(代替現実ゲーム)のようなことは、2000年代にわーっと出てきたわけだけど、1980年代のおしまいに、インターネットという環境が無いときに、物語論を用いた一種の机上の空論として、電通や博報堂の連中といっしょに、論理的な解説を作って、いくつかの実験をやったんですね。

例えば大阪の市街地に意味不明なキャラクターのポスターを貼って都市伝説が発生するかどうかを試したりしたんですが、検証手段がなくて発生したかどうかは分からなかった。まあもちろん当時は全部、机上の空論だったんですが。

——やっといま、それが実現可能になった。

「あの時と同じことを今やっているのだなぁ」というのが感想ですね。但しそのとき、受け手の側で物語を発動させるときに、管理能力のない人間がそこに参画すると暴走が起こるだろうというリスクがある。そのリスクを考えると、倫理的にやるべきじゃないよね、という話を当時はした記憶があります。

例えば、都市伝説って言うのがそうですよね。人のなかにある、不完全な物語の文法が発動する、というのが都市伝説なんですが、民俗学では、都市伝説は物語の構造に従って収斂していくんですよね。それが口伝えでゆっくりと変化していく、というのが口裂け女みたいな例で見られたんですが、今はTwitterなんかで瞬時に伝達され、コピーアンドペーストでどんどん拡散していく。構造的な安定性というものを求める前に暴走してしまう。

さらにそれに拍車をかけるように、受け手の側が物語を語る能力が明らかに後退しているわけです。要するに構造的に安定した物語に触れる前に、構造を内在していないようなゲームに触れてしまうことが、物語の触れることを代替してしまっている。これは親から口移しで日本語を教わらないで、日本語を話しているような状態です。そういうような人間がWebで何かを語っているという、想定していたリスクが現実に起こっている。

うちの学生には、物語論的な知識や試みって言うのは、Web上で生きるためのひとつの技術として必要なものなんだけどね、ということを言っていますね。

——我々は、ARC(秋葉原リサーチセンター)で80年代のコンピュータ雑誌を集めているんですけど、あの時代はコンピュータに無限の可能性があるように感じられていて、ものすごい熱量がありました。あの時代の雑誌の持っていた熱量みたいなものの秘密はどこにあるのかな、と思っているんですが

それは結局、安田均さんという人が象徴していると思います。安田均は仏文からきたわけ。彼はもともと仏文の翻訳者だった。ゲームっていう領域も概念もまだ形になっていない段階で、まったくの異業種から来た人間たちが、何かを作っていこうとしていたのが、コンピュータゲームの創世紀なんでしょうかね。

——やっとテクノロジーというコマが揃って、ARGなどが実用化され流行しているわけですが、それは21世紀になって突然発生した考え方ではないんですね。

私の「物語消費論」は、実は広告代理店の社内紙とか、そういうところに書かれた文章ですから。ほんとうの前提は広告理論なんです。あのころは「こども論」というものが流行っていたから、「こども論」という表現的な形式を取りながら、広告代理店向けの文章を書いていただけですよね。

僕やいとうせいこうとか、香山リカとか浅田彰とか、上野千寿子とか、そういう人たちが広告業界に一瞬だけ若気の至りで関わった時期があって、そのときに、本当にいろんなことをやっているわけですよ。その中のひとつに、物語論を使って、やんちゃというか、イタズラというか、机上の空論を広げていたものがあった。インターネットがない状態の中でね。


「コンピュータとゲームは人生に必要ない」と語る大塚英志氏の言葉には、逆説的にコンピュータとゲームが見落として来たものはなにか、これから先、なにがあり、なにを作って行くべきなのかというヒントが垣間見える気がした。

果たしてその向こう側にあるものはなんだろうか。

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