#240 動き出すこと、それが生命の本質 - 池上 高志 さん(東京大学大学院准教授)
池上 高志 さん(東京大学大学院准教授)
生命とは何か?という謎は、常に問われ続けている。これまでのMammo tvのインタビューでも、生物学、哲学をはじめさまざまなアプローチで生命について考察されている方々に話をうかがってきた。
多くの場合、科学的な見方は、事物を細分化し、観測すれば、客観的な答えに行き着くと考えている。
そうした中、複雑系と呼ばれる科学の領域では、そもそも答えを得るとはどういうことか?どういうわかり方をすることが妥当なのか?を考えるという。そこから見えてくる生命とはどういったものだろうか。複雑系の研究者である池上高志さんに尋ねた。
複雑系では、生命を理解するにあたって、コンピュータのシミュレーションというアプローチが特徴だと聞きました。どういうふうに活用し、そのことで何がわかるのでしょうか?
コンピュータの計算処理が速くなり、分子の運動を同時に計算できるようになりました。そのことで「しょせん生命現象も化学反応に過ぎない。化学反応をシミュレーションできれば、生命もシミュレーションできるはず」と考えることもできます。
これに反対するのが複雑系の立場です。複雑系は生命を理解するときに、たとえば"コンピュータのメタファー"(メモリーとCPUなどにたとえる仕方)を超えた理解の仕方をつくろうとしています。その上で中間層という考え方が重要になってきます。
中間層とは何ですか?
生命は物理化学の法則に則っていますが、私たちが普通に暮らしている上で目にする「生命現象」は、原子や分子にあてはまる法則から独立しているかのように見えます。そういう「切り離しが生まれるレベル」を中間層と呼んでいます。
たとえば、分子の相互作用だけわかれば、脳の仕組みについてすべて明らかになるかというと、そうもいきません。脳のことを非常によく説明できるレイヤー(階層)があるはずです。それが脳の中間層です。
物理現象における中間層は、熱力学のレベルです。仮に水の分子を一個取り出せば、それが水なのか氷なのか、あるいは水蒸気なのかわかるでしょうか。分子がいっぱい集まったときに見えてくる性質というものがあります。
複雑系は、生命の中間層を目指しているともいえます。生命のレイヤーを考えることで、語ることのできる生命の切り口があるでしょう。
複雑系とは、現象にどうアプローチするか。そのレベルを問題にするということでしょうか。たとえば、科学の実験というと、観測する人が対象物を見ます。細かく見ていけばいくほど、客観的な事実がわかるというアプローチをとりますよね。
生命では特にそういう客観的な記述をおびやかします。コ・クリエイティブ(共創的な)という考えがあります。ともに何かを創ることですが、例えば子供の「まねっこ」遊びで、マネする人とマネされる人がいたとして、マネされる人も、マネする人のマネに応じてパターンを変えていくのがわかります。
普通だとマネする側の問題だけを考えますが、お互いがマネしあう場をつくっているのではないか。
それは、物事を分解するのにかかる時間
何かモノが観察者から独立してあるのではなくて、観察によってその場そのものが構成されている。そういう考えは、生命を考える上で重要だと考えています。
それは見ているものが、見られているものに影響を与えているということですか?
単純にはそういうふうにも言えます。もしも、そういう見る見られるの関係がないとします。たとえばここにロボットがあって、それにはセンサーがついていて光を感じるとします。
ロボットにそのセンサーからの信号が入ってきて、それをもとに自分の行動を決めていくとします。
しかし、センサーの情報には、情報の取捨選択を与えないといけない。その取捨選択が、ロボットにとっての外の世界です。それは、ロボットの持つ内部のアルゴリズムで決まって行くのであって、それなくしては何も存在しないことになります。
だから「環境があって、モノがあって」では説明にならない。何を見ているか、を考えないと生命のある世界にはならないわけです。
それは普段の人の知覚に置き換えると、どういうことになりますか?
人間はまさにそれをしています。(研究室を見渡し)ここを見ても、すべての情報を取っているわけではありませんよね。もしそうだったらすごく時間がかかるし、そんな大量の情報を処理できません。むしろ、情報を捨てることが知覚の作用になっています。
逆に言うと、「何を取らないか」という作用があるからモノが見える。捨てることが情報を取るということになっています。
これは、意識の問題、志向性の問題だと思います。なぜなら意識とは志向性のベクトルのことだからです。
ただ、そういう意識の問題を考えるときのツールやモデルがまだあまりありません。
ひとつみなさんがご存知の面白い例があります。日本では、茂木健一郎さんが紹介したアハ体験です。ゆっくり動いているモノがあったとして、たとえそれが大きな変化であっても、人は気付かないわけです。
ところがロボットを持ってきて、映像を見せたらどこが変化したか瞬時にわかる仕組みはつくれる。簡単です。でも人間は気付かない。それは人が劣っているのではなく、コンピュータや機械のつくったセンサーとは違った世界の認識の仕方をしているからです。
逆にアハ体験のできるロボットは、いまのところつくれていません。ゆっくりした変化は認識できないロボットをつくることはできますが、それはそう設計したからのことであって、人間はそういうふうに設計されたわけではありません。しかも人間は一度変化したことがわかると、二度とその変化を見逃すことはない。
人間の見方をするために、わざわざ複雑なプログラムにしないといけない。
誰がストーンヘンジを作った?
人間はいったん気付いたら変化を見逃さないけれど、気付くまでに時間がかかります。そういう過程がロボットにはないからプログラムにいちいち書かないといけません。しかし、書いたところでロボットには"気付く"という体験がないのなら、そもそも気付くとはどういうことなのかが問題になります。
まさにその問題です。気付くことがないとアハ現象もないし、そもそも生命がほかの環境を認識したり、何があるかをわかることもできない。だから、気付くことは、生命現象のすべてにつながっていて、けれどそれは基本的にわからないこととして残されています。
生命がわかるとは、そういった気付きのプロセスを理解していくことではないかとも思えます。
ここでいう"気付き"とは、時間の経過に従った因果関係の把握ということでしょうか?
因果律ではなく、いま言っているのは、「納得する」とかいったことです。たとえば映画の「マトリックス」では、主人公のネオが世界の真実に気付くと、周りがビットパターンに見えます。普通の人にはそうは見えない。でも、悟った人には世界がビットパターンに見える。いままでと見ているものは変わっていない。
気付きとは、それと同じことです。それは因果関係ではなく、ものの見方であり、自分の解釈が世界の像をつくっているということです。
では、複雑系では時間についてどう考えているのでしょう?
脳神経学者のベンジャミン・リベットが主観的な脳の中の時間の問題をあぶり出しました。彼の実験によれば人が「何かをやろう」と思った0.5秒前に、すでに神経活動が始まっているといいます。主観的な"いま"という時間は、「大きさのない瞬間」ではなく有限の幅があって、主観的な時間の流れを構成しているようです。
「主観的時間の流れ」とは、たとえば、「楽しいことは時間が経つのが早い」といったことですか?
年をとると時間の流れを早く感じるけれど、若い頃は遅かったとかありますね。そういう「早く時間が経つ」といった主観的な知覚をもとに時間を考えないと本当の意味での気付きがわからない。
そういう内的時間の再構成を考えることが生命の中間層をつくることにつながる、と思います。時間の流れは決して直線的に流れていません。
たとえば現在、順天堂大学の北澤茂先生が、主観的時間における順序の面白い実験を行ないました。
手を交差して目をつぶり、だれか他の人がすばやく右手、左手、あるいは左手、右手と、順番に触る実験があります。
だんだん触る速度を早くすると、ある時点から右が先立ったのに左に先に触れられたようになったりします。面白いのは、特に200ミリ秒という短い時間になってくると「左右のどちらかわからない」というのではなく、被験者は100%、右を左に、左を右とする時間が現れるのです。
ただ腕をクロスするだけのことなのに、時間順序がひっくりかえってしまう。人間の知覚は本当に起きていることとは別で、身体的なことで時間の順序の知覚も変わってしまう。
どのようにして100分10分の1を変換しない
腕の交差という身体の形で時間の順序が逆になるとは、やってみないと思い付かないことですが、これをどう理解するか。
主観的な時間は一様に流れて行くのではなく、行きつ戻りつしているのではないか。そこにいま興味を持っています。
複雑系は固定的な視点から一貫した記述を行うのではなく、全体的にとらえる必要のある研究分野だということはわかりました。最近では、具体的にどういった研究をされていますか?
最近は、油滴を使った自律性の研究を行っています。水の中にオレイン酸を含んだ油をたらしたとき、その油が自分で動き出すことを世界で初めて見つけました。一緒にやっているのは、いまデンマークにいるMartin Hanczycや、千葉大の豊田太郎さんです。油滴は自分で自分を囲う膜を作り出し、その中で対流が起こり、油滴はその対流の軸方向に動きだします。
自己複製も大事ですが、自分で動き出すということ、そのことからわかる生命現象もあるのではないか。と思っています。
私にとっての生命の理解とは、もっぱら自分で動き出すシステムを作り出すことです。
生命に関心を持つにしても、医学や生物などいろんなアプローチの仕方があったかと思います。
科学者を志したのは、小学校のときに見ていた「スタートレック」という番組とか、アインシュタインの相対性理論を知ったことが影響していると思います。
それでも物理学であって化学にいかなかったのは、いろいろモノの名を覚えなくていけなくて、それは本質的ではない気がしたし、つまらないと思ったからです。
数学はピアニストのような特異的な才能が必要だと思ったし、生物について言えばそれこそ暗記に思えた。生物学者はいろいろな分子を見つけていけば「生物のことがわかる」ようにも見えるけれど、はじめにいったようにモノを分解してわかるというのにはなじめなかった。これは大学生の時の感想ですが。
学問に限った話ではありませんが、一般的には、要素に分解することが正しいと信じられています。
自転車に乗れたときに初めて「自転車に乗れるとはこういうことだ」とわかりますよね。
私が最近経験したのは、ジャグリングです。あれは見ているだけだと、とてもできるようになる気はしなかったけど、できちゃうと普通で、出来ないのが不思議になる。
生命というのはそういう「わかり方」を必要としている気がします。 「生命とは何か?」という命題の前で、「ああでもない、こうでもない」と言っている。そのうちジャグリングをやるようにわかるかもしれないじゃないですか。
学校教育の中では、「ああでもない、こうでもない」という逡巡より、再現性のあるやり方を学び、答えを出して初めて評価されます。
それは完全に間違っていますね。でも、そこには両面性がある。学生が意識とか進化の問題に興味があるといって進学してくるけれども、やっぱりそれだけではどうしようもなくて、この方程式はどう解いたらいいのか、というようなことを学ぶ「通過儀礼」を経ないとわからないこともある。方程式を解くなんてことはつまらなくて、意識のほうが大きい問題だ、とは言えない。
そのふたつは、同じくらいの重みがあるということをわからないといけないでしょう。
確かに暗記といったルーティンはつまらないけれど、そうしたことは早く賢く終わらせて、あとは自分のやりたいことに時間を使えばいい。
思春期の頃は、 "早く賢く終わらせ"ることにひっかかりを覚えて、反抗したくなります。
確かに私にもそういう時期が何回かありましたし、10代の頃は何となく日々虚しく感じていました。でも、「あれをやって良かった」とか「悪かった」とは思わないようにしています。
そういう評価は、あくまでもいまの時点で思うことだし、そのとき失敗したことも、いまとなってはいいこともあるし、当時よかったと思ったことが何の意味もないこともある。そうそう価値はつけられません。
ただ、怠惰なことがけっこう重要だった。何もしていないときに得ることは多いと思います。たとえば科学とは、人間のように道を間違えずに、速く最適化して進むロボットとか、人間以上の学習するロボットをつくることだと考えるかもしれない。
けれど、そういうことをやっている限り、絶対に「生命をわかること」に行き着かない。生きるということは、何かに飽きてしまうことだし、失敗することだし最適化できないこと、です。そういうのをノイズだ、無駄な部分だと思うのは誤りだと思います。
鳥を見て、なぜ飛べるかを考え、人は飛行機をつくった。しかも飛行機は鳥より快適に早く飛べる。でも、だからといって鳥のことがちゃんとわかったわけではない。鳥はなぜ飛んだのか?の答えにはならない。
複雑系は短兵急に答えを出さないところが特徴のような気がします。確定できないことについて粘り強く考えていく上での資質はあるものでしょうか?
特にないと思います。ただ、コンピュータのプログラムや数学ができないなら、ちゃんと勉強すれば、ある程度ものになります。でも、センスはなかなか磨けない。「こっちのほうがおもしろい」というセンスをわからせるのは難しい。
そういう意味で、なにか自分のセンスを磨くことがあるといいと思う。ファッションでもいいし、音楽でもいい。それをもとにして初めて考えられるものもあります。
生命とは何か?なんて普通の疑問で、誰もが思うことです。話はそれから先、どうやって考えるかの方ですからね。
[文責・尹雄大]
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