市民による自治体コンテスト1位のまち(3):海外版わがまち元気情報
■僕には時間がある
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ニュルティンゲン市庁舎のすぐ隣に、ボルフガング・ケーニッヒというおじさんが住んでいる。通称は「飴玉ケーニッヒ」で、以前奥さんと一緒にキャンディーやチョコレート類を売る店を経営していた。しかし1990年代初めに、将来の見通しがなかったことと、健康上の理由から店を閉めてしまった。失業者になったわけである。当時57歳、これから何をしようか迷っているときに、家の目の前に「市民の集い」ができた。ケーニッヒ氏はそんなにお金に困っていなかったので、この施設で何か社会貢献しようと思った。最初は「市民の集いカフェ」でアルバイトをはじめた。前回紹介したイベント「夕べの集い−議員が質問し、市民が答える−」にもよく参加するようになった。
ある時、普段は封鎖されている街の教会の塔の上にある部屋で「夕べの集い」が開かれた【写真11】。誰かが「ここを定期的に開けて、市民や観光客を案内したらどうだ。眺めもすばらしい」と言った。「それはいい、よしやろうじゃないか」と数人の市民がボランティアガイドの役を買ってでた。ケーニッヒ氏も、「僕には時間もあるし、街の歴史にも興味がある」と直ぐに参加を決め、ガイドのリーダーになった【写真12】。
ただ単に、人々を塔の上に連れて行き、すばらしい眺めを見せるだけじゃない。彼ら市民ボランティアガイドは、自分たちで教会の塔にまつわる町の歴史を勉強し、市民や観光客に伝える。また戦前10年間塔の上に家族と住んでいたというおばあさんから当時の話を聞きだした。塔の上には住居があり、昔はここに守衛の家族が住んでいた。トイレットペーパーがなくなったときの対策とか、病人が出たとき、ロープにくくりつけて、下まで降ろした話など塔の上の生活の話をすると、市民や観光客は目を丸くして聞き入るという。人々が見せるこの感嘆の表情が、ケーニッヒ氏にとって一番の快感だそうだ。仲間の中には、これで味をしめて、本格的に観光ガイドの講習を受け、公式の免許を取った者も何人かいる。ケーニッヒ氏もその� �人だ。
塔登りガイドツアーは、月に1回第二日曜日に開かれる。また、お祭りのときや、市に他所からお客さんが来たときなども市民ガイドが活躍する【写真13】。「1時間に最高700人を塔の上に案内したこともある」とケーニッヒ氏は自慢げに話す。
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■失業問題に取り組む
市民が自ら考え、企画し、実行する。ニュルティンゲン市が「市民の町」への変身を試みてから5年経った90年代後半になると、市民活動が盛り上がりを見せ、自発的な市民事業が盛んに行われるようになった。上に紹介した市民による観光ガイドはその代表例である。この他、失業問題に取り組もうということで、いくつかのプロジェクトが生まれた。一つは「交換リング」という会。人から得るサービスを、お金でなく、更なるサービスや物で払うというシステムである。例えば電気に詳しい会員が会の仲間のオーディオ機器の修理をし、サービスを受けた人は、ワイシャツのアイロン掛けをしてお礼をする、といったものだ。地元企業が中心になり職場、職業養成のローカルのネットワークもできた。身体の不自由な老人を失業者が中� ��になってデイサービスの施設へ送り迎えする組織もある。
「行政などが行う従来の社会福祉事業は、社会的弱者をクライアント(患者)として扱う。そうすると、一般の人との格差は広がり、余計に階層の分化を生む」と「市民の集い」のヴェーツェル氏は言う。失業問題の本質は、失業者が経済的に困っている、というよりも、自分の生きている社会に対して何もしていないことから来る精神的な落ち込みにある。そして自分の中に閉じこもり、社会に目を向けなくなる。上記のプロジェクトは、失業者を社会の一員として認め、精神的悪循環から解放しようというと試みるものだ。
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■背景にある行政の援助
ただしここに挙げた自発的な市民活動は、行政が提供した大きなフレームがあったから誕生することができたものだ。市民主体の観光事業は「市民の集い」というオープンなスペースから、失業問題に関わる3つのプロジェクトは、「市民の集い」のマネージャーが中心になって企画した「ニュルティンゲン・ソーシャル会議」から生まれている。
ソーシャル会議は1997年から毎年開かれている。「世代間交流」「ボランティア活動」「これからの職場」というふうに毎回テーマが決められ、それに合わせて、専門家、関連団体、問題の当事者、行政部局など様々な団体の代表からなる準備チームが結成され、会議の進行を話し合う。会議は、現状や問題を分析するだけに終わるのではなく、参加者が未来にむけた自分のアイデアを出し合い、みんなでヴィジョンを描き、それに向けた具体的な対策を話し合うところまで行くように仕向けているという。ここで重要な役割を果たすのが司会者だ。「市民の集い」の職員または外部からプロがやってきて司会進行を行っている。「司会者として気をつけることは何ですか」と聞くと「まず、自分は意見を言わないで、うまく参加者の思いや 考えを引き出すこと。会議が退屈にならないように、会議中の意見を絶えずヴィジュアル化すること。目標(具体的な対策づくり)に向かって効率よく会議を進めていくこと」とヴェーツェル氏は言う。経験を積んだプロでないとなかなかできない仕事である。
場所と人脈とプロフェッショナルな職人、そして安くはない費用を必要とするこのような会議は、市民だけではまず無理で、ここにこそ行政の助けが必要になる。ニュルティンゲン市の行政はその役割をきちんと自覚している。
■認める、称賛する
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「ニュルティンゲンでは、ここ15年でAnerkennungskultur(認める、称賛する文化)が育った」とヴェーツェル氏は言う。自発的に町の福祉事業や文化イベントに参加する市民、または新しく事業を考え実践する市民の活動を、行政や周りの市民がきちんと評価すること、褒めることである。
具体的なものとして、2000年から導入している「ニュルティンゲンのボランティアパス」というクーポン券がある【写真14】。活発に活動した市民にそのお礼として配る。クーポンは地元の商店、銀行、行政などが提供する。デパートやパン屋の商品券から、コンサートのチケット、ネッカー川でのボートレンタル券と様々だ。地域社会に貢献した市民に、地域の人々が直接お礼をする。地域経済の活性化にも繋がる。最初の年は66、2001年からはその倍以上のクーポン券が集まっている。
子供たちのボランティア活動を評価するシステムもある。「Tu−Was−Tagebuch」(意訳すると、「ボランティア日記」)といい、「市民の集い」と教育委員会が一緒に考えたものだ。子供たちは、地元のサークルや何かのイベントで活動したこと、環境保護に取り組んだこと、道端で身体障害者を助けたことなどを日記に書いていく【写真15】。年度末に日記帳が集められ、優秀な子供に教育委員会から賞状が配られる【写真16】。これをもっていると、将来地域で職場を探す際に大変有利だそうだ。
多くの人々に市民活動を知ってもらうために最も効果的なのが、新聞や雑誌、テレビなどを使うことだろう。活動する市民にとっては、メディアで紹介されるということは大きな誇りになる。1998年に「Bingo(ビンゴ)」という市民活動を報告する雑誌ができた。有志の市民と地元新聞局「ニュルティンゲン新聞」が共同で、年3回、1万部、無料で発行している。記事を書くのは市民で、新聞社がそれを編集する。新聞社にとっては明らかな赤字事業である。にもかかわらずこれを支援しているのは、ジャーナリストが市民と身近に触れ合うなかで、面白いネタを聞きだすことができ、普段の記事が生き生きとしたものになるからだと言う。
■市民の町になるための秘訣は?
「そうか、認めること、称賛することが大事なのか」と、市民参加を盛り上げたい町が、ニュルティンゲン市のボランティアパスなどよく真似するそうだ。そして、「でもうちでは、なぜかうまくいかなかった」と報告を受けることもしばしばあるという。
「我々は、認める、称賛する文化と言っている。文化という言葉を使うのは、それが、町という共同体の様々な分野に関わっているからだ。共同体生活の全体を現している。ボランティアパスや子供の日記は、称賛する文化の一部に過ぎない」とヴェーツェル氏は言う。ドイツ人的な観念的言い方であるが、彼が言いたいのは「表面的なものだけ取り出して真似てもだめだ。全体を見ないといけない」ということだろう。
では全体的とは何を指しているのか?具体的には、行政や議会が、市民を町づくりの役者として同じ舞台の上に上げたこと。行政、議会、市民の三者が「対話」できる空間を作ったこと。市民がいつでも集える場所を提供したこと。市民参加をうまくコーディネートする専門職員を配置したこと。必要な場合は資金を援助したこと。このような包括的な取り組みが、ニュルティンゲン市を「市民の町」に導いた。
■前市長の言葉
ニュルティンゲン市レポートは今回で終わりだが、最後にちょっといい話をしたい。最初に登場したケーニッヒ氏、実は前市長のバッハオーファー氏と以前大喧嘩している。1990年代初めの市庁舎の拡張事業の際、市は、隣に住むケーニッヒ氏に立ち退き要求をした。市長は何度もケーニッヒ氏に言い寄ったが、彼は頑として自分の土地を譲らなかった。結局市は、彼の土地を獲得することはできずに当初のプランを縮小して拡張工事を行った。
数年前、バッハオーファー氏が自分の故郷の人々をお客さんとして町に連れてきた。町のシンボルである教会の塔にもぜひ登りたい、ということで、市長の秘書が、ケーニッヒ氏のところにガイドをお願いする電話をかけてきた。彼は快く引き受けた。
人々を出迎える「市民の集い」でお茶の準備がちょうど終わるころ、前市長がお客さんをつれてやってきた。「こんな感じで準備したのだけど、いいかな」とケーニッヒ氏が尋ねると、「ちょっと待ってくれ。みんな聞いてくれるかい?」と前市長が話し始めた。「さっき話したよね。ここにいる男だよ。市に土地を譲ってくれなかった、私と大喧嘩したのは」前市長は以前の喧嘩相手の肩に手を置いた「でも今はどうだい、見てくれ、また昔のようないい友達だ」。この言葉にケーニッヒ氏はとても感銘を受けたという。「僕のような頑固な一市民とやり合ったことをみんなの前でオープンに話し、それはもう終わったこと、と軽く片付けてしまう。こんな市長はなかなかいるもんじゃない」
了
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